【千葉県我孫子市 曹洞宗 観音寺ホームページ jiminzan.com】

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境内と近隣史跡.png

境内施設3.png



siseki_001.jpg日常の法要はこちらで行われます。
この本堂がいつごろ建てられたか、現在のところわかっていません。
もと茅葺であったもので、以前は本堂と庫裏を兼ねていました。構造が古民家の曲り屋のようなL字型の造りになって、度重なる修復を経て現在に至っています。
ご本尊はお釈迦様です。



siseki_002.jpg安政年間(1854~1860)頃の創建といわれる。こちらも、もと茅葺であったものを昭和48年に修復。鉄板で覆いました。方三間。入母屋造りで正面に向拝がついています。
内陣の欄間に「慶応2年9月、金5両・・・」の銘、向拝には「慶応2年2月・・彫工後藤○○・・・」の銘と見事な彫り物があります。
この観音堂の中のお厨子のなかに将門様の守り本尊、聖観世音菩薩をおまつりしています。
現在も霊験はあらたかで、地元はもとより「ご利益があるとお聞きしまして」「ある方に日秀の観音様にお参りするといいと勧められて・・・」など各方面から参詣にこられます。
余談ですが、将門神社から見ると、現在の観音寺(観音堂)は北東(やや北寄り)に位置します。将門神社の鬼門封じに守本尊を安置したのかもしれません。



siseki_003.jpg「太い樹ですね~」
「何年くらいたっているんですか?」
訪れる人に必ず聞かれますが、正直分かりません。
「300~400年位じゃないでしょうかね~・・・」
と、なんともアヤフヤな答え方をしています。
道路拡幅によりまして、境内が狭くなり、塀が引っ込みましたので、道路にはみ出したようになっています。台風や大雪のときはとても心配です。直径15センチ位の枝が落ちてきたこともありました。
皆様下を通るときは気をつけてください。

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siseki_004.jpgsiseki_004.jpgよく見てください
このお地蔵様は首をカクンと傾げています
何故でしょう?
理由はこの地域の人々が、将門を敬愛する心を表現したものと思われます。
将門の時代、朝廷が将門鎮圧のため成田山に祈祷を依頼し、その後将門が戦死したことから、敵意を表し、そっぽを向いているという、珍しいお地蔵様です。
前の道路が成田街道、画面左方向が成田山。
まさに、成田山にプイッとしてるみたいですね。
いつ頃、誰が建てたかは、銘がないので不明です。

※実際仏さま同士が「フンッ」と無視したり喧嘩したりすることはありません。念の為。。。


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siseki_005.jpgsiseki_005.jpg我孫子市、柏市、茨城県取手市にわたって点在する札所で、四国の八十八ヵ所の移し。こうした札所の移しは各所に存在します。
大師参りとも、八箇所参りともいわれ、春のお彼岸頃になると装束に身を固め鈴を鳴らしながらおまいりする姿が見られましたが、最近はめっきり少なくなりました。
観音寺は第29番札所になります。高知県摩尼山国分寺の移。
相馬霊場にいては、我孫子市内の市民グループ「我孫子市史研究センター」さんが会員の足で踏破し、道のりや周辺の現状を詳細にまとめた『新四国相馬霊場八十八ヶ所を訪ねる』を発行しています。詳細はリンクページから「我孫子市史研究センター」さんのホームページをご覧ください。

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img127gh0529_1.jpgimg127gh0529_1.jpg老朽化のため、平成24年7月に改築しました。
中には薬師三尊、十二神将が祀られています。
昼夜、東西南北上下あらゆるところで、病に苦しむ衆生を救って下さる仏様です。
また眼病にご利益があるといわれています。
住職の父も病と、眼病に苦しみました。
いまも、いろいろな病、心の病に苦み悩んでおられる方々に祈りを込めて建立いたしました。


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siseki_007.jpgsiseki_007.jpg観音堂前にはいくつかの石塔が立てられています。文字だけのもの、穏やかなお顔の仏様が浮き彫りになったもの、鬼の形相の夜叉神のような彫り物や三匹の猿が掘られたものなどさまざまです。





【庚申塔】

元禄11年(1698)~明治37年(1904)まで7基の庚申塔があります。
庚申信仰は中国の道教と深く係わりをもっています。
人間の体の中に三尸(さんし)という虫がいて、人が眠ったすきに体を抜け出し、天の神に悪事を密告して寿命を縮めてしまうというのです。そこで、60日に一度ある庚申の日に眠らずお篭りをしたのです。
それが、日本の神道の猿田彦神と結びつき、さらに仏教の帝釈天、青面金剛がご本尊とされました。怖いお顔で人の悪事を戒めています。
3匹の猿が彫られている場合があります。これは、悪事を「見ない・聞かない・言わない」ポーズをお願いしているんでしょうね。

【月待塔】

月待塔(つきまちとう)は、民間信仰のひとつで、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜に集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月の出るのを拝み悪霊を追い払うという宗教行事で、その供養の記念として造立した塔のことです。
月への崇拝は古くからありました。月への崇拝や祈願もおこなわれたにちがいありません。
月待塔を見ると仏様を刻んだものがありますが、ほとんどが仏教の教義に基づいていて、十九夜と二十二夜では如意輪観音、二十三夜は勢至菩薩、そして二十六夜が愛染明王とほぼ決まっているようです。
こうした月待行事が行われた場所は様々なようですが、月を拝む行為が可能な場所は限東の空が見られる地形、寺院や神社など人が集まって空を見上げられる広い場所やお堂などが最適だったのでしょう。

【その他の塔】

・鯖大師塔
・阿弥陀如来像
・普門品五万巻供養塔
・善光寺参拝記念塔


このように、境内には多くの供養塔や記念碑がありますが、石塔の造立となれば、それ相応の金銭的負担が発生したことでしょう。それぞれの時代において地域社会の一員として果たすべき責任と信仰心が篤かったことうかがい知れます。



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siseki_008.jpgsiseki_008.jpgDSC01445-2.jpgDSC01445-2.jpg利根川流域の下総地域に見られる安産祈願の女人講。我孫子市岡発戸(オカホット)の待道神社が発祥と言われてます。
待道の名は、妊娠した女性とその旦那様が待合わせをしたが、お互いに別々の場所で待っていたため、女性は待っている間に産気づき道端で子供を生んでしまった。それで道で待ということから、待道と言われるようになったといいます。
近年まで「マツドッ講」という農家の若妻会がありました。田植の終わった頃、稲刈りの終わった頃、決まって観音堂に集まり、掛け軸をかけて和気あいあいと歓談していました。

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hudekotou2-.jpghudekotou2-.jpg歴代住職の墓石の中に、「筆子中」と刻まれたものがあります。
これは学制が始まる前、寺子屋、私塾が行われていた頃、学んだ子を「筆子」と呼びました。
読み書きを教えていただいた先生である恩師、ご住職に対する感謝の気持ちを込めて墓石に名を刻んで供養し偲んだものでしょう。

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近隣史跡3.png

siseki_010.jpgsiseki_010.jpg観音寺から手賀沼方向へ南下JR成田線を過ぎ県立湖北高校を右に見ながらさらに進むと、道が3つに分かれる。その三叉路を右方向に進んでいくと小さな祠があります。この辺りにかつては将門の出城があったと伝えられています。
将門が戦死した時、その霊が日秀の郷に現れ、「吾は平親王将門の魂である、今よりこの地に止まり村中の老幼を守るであろう」と言って消え失せたといわれています。
郷土史誌「湖北村誌」によれば、この地はかつて将門公が手賀村布瀬明神下から手賀沼を騎馬で乗り切り、湖畔の丘に登って馬を繋ぎ、朝日を拝したところだといいます。将門没後その遺臣たちがこの地に一宇を建立し公の霊を迎えたのがその起源といわれています。
現在祠を残すのみですが、「湖北村誌」には拝殿と思われる木造の社屋が見られます。写真には南方向にわずかに鳥居があるのが確認できます。往時は手賀沼方向から斜面を北に登る参道があったものと推測します。主な行事は1月第2日曜日に「オビシャ」、7月第2日曜日に「宮薙」(ミヤナギ)が行われています。

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siseki_011.jpgsiseki_011.jpg上記の三叉路を左に下ると林の中に古木の下に窪みがあります。承平2年(932)に将門が開き軍用に供したと伝えられています。
『下総国日出村観世音菩薩縁起』には「社の震に石井戸を開いた」とある。社は将門神社のことであろう。「震」は占いの八卦のひとつで「東」を表します。東は井戸を開くにあたっての吉方といわれています。将門の井戸は将門神社のちょうど東の方角にありますから、関連性はあると思われます。


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現在千葉県立我孫子特別支援学校(旧県立湖北高校跡)のある場所は、昭和52年の発掘調査により、縄文時代の住居址2軒、弥生時代の住居址2軒、古墳時代の住居址188軒、歴史時代の建物跡54棟が見つかっています。
建物跡からは和同開珎の銀銭も見つかっています。さらに、炭化した米粒などがあったことなどから大きな倉庫が建っていたと考えられています。また、遺跡周辺にも多くの集落跡が確認できる事から、古代における下総国の郡衙跡(役所)かとも考えられています。ひょっとすると「日秀」が古代この地域の中心だったかもしれません。
この遺跡の東側に「チアミ」という小字があります。なぜ「チアミ」という地名がつけられたのか不明ですが、ひょっとすると遺蹟の柱跡の穴がいくつも網のようにみつかって「千網」としたのかなとも思っています。

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相馬郡衙正倉想像図(我孫子市教育委員会提供)

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