安政年間(1854~1860)頃の創建といわれる。こちらも、もと茅葺であったものを昭和48年に修復。鉄板で覆いました。方三間。入母屋造りで正面に向拝がついています。
内陣の欄間に「慶応2年9月、金5両・・・」の銘、向拝には「慶応2年2月・・彫工後藤○○・・・」の銘と見事な彫り物があります。
この観音堂の中のお厨子のなかに将門様の守り本尊、聖観世音菩薩をおまつりしています。
現在も霊験はあらたかで、地元はもとより「ご利益があるとお聞きしまして」「ある方に日秀の観音様にお参りするといいと勧められて・・・」など各方面から参詣にこられます。
余談ですが、将門神社から見ると、現在の観音寺(観音堂)は北東(やや北寄り)に位置します。将門神社の鬼門封じに守本尊を安置したのかもしれません。
我孫子市、柏市、茨城県取手市にわたって点在する札所で、四国の八十八ヵ所の移し。こうした札所の移しは各所に存在します。
大師参りとも、八箇所参りともいわれ、春のお彼岸頃になると装束に身を固め鈴を鳴らしながらおまいりする姿が見られましたが、最近はめっきり少なくなりました。
観音寺は第29番札所になります。高知県摩尼山国分寺の移。
相馬霊場にいては、我孫子市内の市民グループ「我孫子市史研究センター」さんが会員の足で踏破し、道のりや周辺の現状を詳細にまとめた『新四国相馬霊場八十八ヶ所を訪ねる』を発行しています。詳細はリンクページから「我孫子市史研究センター」さんのホームページをご覧ください。
観音堂前にはいくつかの石塔が立てられています。文字だけのもの、穏やかなお顔の仏様が浮き彫りになったもの、鬼の形相の夜叉神のような彫り物や三匹の猿が掘られたものなどさまざまです。
【庚申塔】
元禄11年(1698)~明治37年(1904)まで7基の庚申塔があります。
庚申信仰は中国の道教と深く係わりをもっています。
人間の体の中に三尸(さんし)という虫がいて、人が眠ったすきに体を抜け出し、天の神に悪事を密告して寿命を縮めてしまうというのです。そこで、60日に一度ある庚申の日に眠らずお篭りをしたのです。
それが、日本の神道の猿田彦神と結びつき、さらに仏教の帝釈天、青面金剛がご本尊とされました。怖いお顔で人の悪事を戒めています。
3匹の猿が彫られている場合があります。これは、悪事を「見ない・聞かない・言わない」ポーズをお願いしているんでしょうね。
【月待塔】
月待塔(つきまちとう)は、民間信仰のひとつで、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜に集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月の出るのを拝み悪霊を追い払うという宗教行事で、その供養の記念として造立した塔のことです。
月への崇拝は古くからありました。月への崇拝や祈願もおこなわれたにちがいありません。
月待塔を見ると仏様を刻んだものがありますが、ほとんどが仏教の教義に基づいていて、十九夜と二十二夜では如意輪観音、二十三夜は勢至菩薩、そして二十六夜が愛染明王とほぼ決まっているようです。
こうした月待行事が行われた場所は様々なようですが、月を拝む行為が可能な場所は限東の空が見られる地形、寺院や神社など人が集まって空を見上げられる広い場所やお堂などが最適だったのでしょう。
【その他の塔】
・鯖大師塔
・阿弥陀如来像
・普門品五万巻供養塔
・善光寺参拝記念塔
このように、境内には多くの供養塔や記念碑がありますが、石塔の造立となれば、それ相応の金銭的負担が発生したことでしょう。それぞれの時代において地域社会の一員として果たすべき責任と信仰心が篤かったことうかがい知れます。
観音寺から手賀沼方向へ南下JR成田線を過ぎ県立湖北高校を右に見ながらさらに進むと、道が3つに分かれる。その三叉路を右方向に進んでいくと小さな祠があります。この辺りにかつては将門の出城があったと伝えられています。
将門が戦死した時、その霊が日秀の郷に現れ、「吾は平親王将門の魂である、今よりこの地に止まり村中の老幼を守るであろう」と言って消え失せたといわれています。
郷土史誌「湖北村誌」によれば、この地はかつて将門公が手賀村布瀬明神下から手賀沼を騎馬で乗り切り、湖畔の丘に登って馬を繋ぎ、朝日を拝したところだといいます。将門没後その遺臣たちがこの地に一宇を建立し公の霊を迎えたのがその起源といわれています。
現在祠を残すのみですが、「湖北村誌」には拝殿と思われる木造の社屋が見られます。写真には南方向にわずかに鳥居があるのが確認できます。往時は手賀沼方向から斜面を北に登る参道があったものと推測します。主な行事は1月第2日曜日に「オビシャ」、7月第2日曜日に「宮薙」(ミヤナギ)が行われています。
現在千葉県立我孫子特別支援学校(旧県立湖北高校跡)のある場所は、昭和52年の発掘調査により、縄文時代の住居址2軒、弥生時代の住居址2軒、古墳時代の住居址188軒、歴史時代の建物跡54棟が見つかっています。
建物跡からは和同開珎の銀銭も見つかっています。さらに、炭化した米粒などがあったことなどから大きな倉庫が建っていたと考えられています。また、遺跡周辺にも多くの集落跡が確認できる事から、古代における下総国の郡衙跡(役所)かとも考えられています。ひょっとすると「日秀」が古代この地域の中心だったかもしれません。
この遺跡の東側に「チアミ」という小字があります。なぜ「チアミ」という地名がつけられたのか不明ですが、ひょっとすると遺蹟の柱跡の穴がいくつも網のようにみつかって「千網」としたのかなとも思っています。