平将門と日秀の伝承
手賀沼を望む日秀の地に、今も息づく将門ゆかりの物語。
日秀に残る将門伝承
日秀に語り継がれる、平将門の記憶
平将門公は、天慶の乱を起こした武将として知られています。
日秀の地には、将門公がこの地を訪れ、里人を守り、信仰を深めたという伝承が今も語り継がれ、観音寺やその周辺には、将門公ゆかりの史跡や信仰の場が点在しています。
将門神社
将門公の霊を迎えたと伝わる神社です。
観音寺から手賀沼方面へ進んだ場所にあり、将門公が手賀沼南方から騎馬で渡り岡に上がって朝日を拝した場所と言われています。またかつてこのあたりに平将門公の出城(砦)があったとも伝わる場所です。承平天慶の乱にて将門公が戦死した後、その霊が日秀の郷に現れ、「我は日秀の郷に永く留まり、村人を守る」と告げたという伝説があります。村人たちはその霊を祀るために祠を建て、今も静かに受け継がれています。現在は小さな祠が残るのみですが、毎年「オビシャ」や「宮薙」などの地域の行事が執り行われており、人々の信仰を集め続けています。
将門の井戸
承平2年、将門公が開いたと伝わる井戸。
承平2(932)年に将門公が自ら開き、軍用に供したという伝承があり、当寺に残る『下総国日出村観世音菩薩縁起』には、「社の震に石井戸を開いた」との記述が残されています。「震(しん)」とは東の方角を指し、この井戸が将門神社のほぼ東方に位置することから、関連性が高いものと思われます。
また、『湖北村誌』に中相馬七ケ村には七つ井戸と称して各村に一カ所ずつ井戸があったと記されています。日秀の村民は将門の井戸を「石井戸」(いわいど)と呼んでいました。
将門神社と将門の井戸の位置関係
手賀沼を望む日秀の丘
騎馬で手賀沼を渡り、朝日を拝したという伝承。
将門公が馬を進め、この丘に登って東にのぼる日の出を拝み、武運長久と民の安寧を祈ったと伝えられています。
手賀沼の水面が朝日に照らされ、黄金色に輝く様子は、かつて将門公が眺めた景色と重なり合い、今も手賀沼の美しいパノラマを一望できる景勝の地として残されています。
日秀周辺に残る古代の痕跡
日秀が古代における地域の中心であったことを示す貴重な発掘成果
保存された遺跡の画像
旧湖北高校跡地などの調査により、縄文・弥生・古墳・歴史時代の住居跡や掘立柱建物跡が多数発見されました。「千葉県我孫子市日秀西遺跡発掘調査報告書」(千葉県教育委員会)より引用
切断された「和同開珎」
古代の公鋳貨幣「和同開珎」の銀銭が出土しており、早い段階からこの地で高い水準の交易や行政が行われていたことをうかがわせます。我孫子市ホームページより引用
炭化米
発掘によって黒く炭化した古代のお米が良好な状態で出土し、手賀沼周辺の豊かな自然環境を利用した盛んな稲作を示しています。画像はイメージです。
相馬郡衙正倉想像図
当時の税である「稲租」を保管したとみられる、頑丈な高床式の木造正倉(倉庫群)が立ち並んでいた古代の様子を示す復元想像図です。我孫子市教育委員会提供。
観音寺とのつながり
観音寺に受け継がれる将門ゆかりの信仰。
観音寺の境内にある観音堂には、将門公の「守り本尊」であったと伝えられる「聖観世音菩薩(ひびり観音)」がお祀りされています。
将門公が自らの心身の守護と武運を念じ、身につけるなどして大切に信仰していたとされ、この地に平沙をもたらしたと伝わります。観音寺は、将門公にまつわる日秀の伝承を現在につなぐ、信仰と地域の記憶の要として、代々の住職や地域の人々によって守られてきました。
日秀の将門伝承をたどる散策ルート
観音寺
将門守り本尊を祀る本堂・観音堂
将門神社
将門公の霊を祀り、行事が残る祠
将門の井戸
将門公が開き、今も水が湧く古井戸
手賀沼方面
朝日を拝んだと伝わる手賀沼の丘
日秀の地名
「日秀」の漢字のみで「ひびり」と読みます。初めての人はほぼ読めませんね。
「ひびり」の地名についてはハッキリした謂れは現在もわかりません。歴史的には古くは将門が手賀沼よりこの台地に上り朝日を拝したことに由来し「日出村」(ひいで)と称したと伝えられています。
現存する資料について
- 寛文12年(1672)の上新木青年館庚申塔に「日秀村」の記載がみられること。(右写真)
- 元禄5年(1692)新木村から分村したとき、日秀村としたという記述(湖北村誌)。
- 元禄15年(1702)将門神社境内水神祠に日出村の記載があること。
- 『観音寺観世音菩薩縁起』(原本所在不明)には「日秀弾正佐友治」(日出弾正佐友治)という人物がこの地に留まり守護したことから「日秀」としたとされている記述。
など諸説ありますが、各説のなかでも「日秀」と「日出」が混在しています。このように「日出」と「日秀」の文字の変化、「ひびり」の読みについては不明な点が今なお多くあります。読み方、称え方として「ひので」が「ひいで」となり「ひーで」と発音し「秀」を宛てたのでしょうか。
最近思うにこの地が元は新木に含まれていたことからすれば、方向的に日没の見える地、「日入」(ひいり)、村の中心からみれば「地域の終わり」「へり」が「びり」に、端っこの意味「尻」(しり)が「びり」に、日が落ちる縁=「ひべり」が変化したのかと考えられないかと思っています。今なお謎です。
※我孫子には難読難解な地名が多くあります。
「我孫子」も「あびこ」とはなかなか読めないでしょう。「久寺家」(くじけ)、「高野山」(こうのやま)「岡発戸」(おかほっと)「下ヶ戸」(さげと)、「都部」(いちぶ)、「中峠」(なかびょう)、「江蔵地」(えぞうち)など、小字を含むと更に存在します。市内の地名については市内の歴史研究グループの「我孫子市史研究センター」で緻密に調査研究されています。