下総國相馬郡日出村観世音菩薩縁起 抑當寺正観音自在の尊像は行基菩薩の御作 長壱尺三寸の立像にして當庄能鎮守正門大明神の守本尊な里
頃盤人王六十一代朱雀院の御宇承平二年壬辰明神此所江鎮座有社地の震御手洗越開石井戸と名ヶ観世音の尊像越此邊り耳安置し奉流 代交り歳久して當宇壤須といへと 石井龍燈の霊験は今目のあたり顕れり中世日秀弾正佐友治此庄の守護となり深く観世音を信仰し慈愍山観音寺境内内江一宇越建立し開山名應和尚を導師として安座供養し奉る 今に至りて此里越日秀といふ事此時与り權輿連り 或時賊有尊像を盗 境内を出ンと須 時耳尊像磐石のことくにして動多ま王須 賊怖連戰て損像越打捨迯行 其夜住持夢窓の御告耳驚き御堂江行見多毛ふに観世音不在なり 以って起在所の族越あ津め 古々彼しこと尋怒れとも御行衛不知 時耳多年信仰の人 不思議の御告有り 我可像盤境内を離連須との霊感を蒙り依之各々寺内越多津ぬ類に尊容籬の下に得多り住持喜飛 御堂江移入連多まふ 人々感涙肝に銘し難有信敬し怒 實耳大慈大悲能救世間苦の御本誓不虚驗耳や
御哥耳 唯多の□ 三界六道能一切衆生 □我世の中に □□□起りは
抑自北相馬仁住所四国の軍勢催シ□□ニ向故 関東利根川を隔て此所ニ出城を構ヘ四年間之間戰籠城ス 故此処の産神仁祭 平親王正門七騎大名神ト奉祝 祭其時此所之有志日出弾正之佐友治則名字を片取日出村与云 承平七年より當年御神宅如意長久安全祈攸 元禄拾五仁年三月九日 守谷町宮本丹波守 神主 同 和泉守 右此縁起自往昔雖モ有ルト之來紙古シテ虫蝕シ人見依之甲子歳弥生下旬増補而シテ奉納ヲ焉置ク者也 大龍山正泉寺廿九世 機外恩禪謹焉 文化元年甲子歳二年三年 下総相馬郡中相馬庄日秀村 慈愍山観音寺 龍山林風代
※原本所在が不明で、当寺にもコピーがあるのみです。虫食いと写りが鮮明でありませんが原文のまま掲載します。誤字もそのまま書き写しました。
下総の国、相馬郡日出村、観世音菩薩の縁起(訳) 当観音寺の観世音菩薩の尊像は、行基菩薩のお作りになったもので、大きさは一尺三寸の立像であります。 この地域の鎮守神である明神様(将門さま)の守り本尊です。 時に、61代朱雀天皇の時代、承平2年に、明神様(将門さま)がこの地にいらして、将門神社の吉方である東方に井戸を掘り石井戸(いわいど)と名づけました。 そして一体の観音像をこの辺に祀り信仰していました。 時代が流れ、お堂などの建物はなくなってしまいましたが、石井戸(観音様・明神様)の霊験はあらたかでありました。中世を過ぎ、日秀弾正佐友治という者がこの地域の守護となり深く観音様を信仰し現在の観音寺に当たる場所にお堂を建て、名応(名翁)和尚様を開山導師としてお招きし供養しました。 今、この地域を「日秀」というのはこの事からはじまっているといわれます。 ある時に、盗賊が侵入し観音様の尊像を盗んでいこうとしました。抱えて境内を出ようとしましたが岩のように重くなってしまいました。盗賊は怖くなって観音像をほうって逃げてしまいました。 その夜に、時の住職が夢のお告げを見てお堂に行ってみると観音像が無くなっていることに気づきました。人を集めて捜索しましたが確認できませんでした。観音像はどこへ行ってしまったかと困っていたところ、篤信の者が「私たちの観音様は境内から外には出ていない・・・」と霊感のお告げを聞いたといいます。 さらに境内をくまなく探すと、垣根の下にころがっていました。 住職が大いに喜んでお堂に安置、みんな涙を流して喜びました。 誠に、大慈大悲にしてよく世間の苦しみを救いたもう疑い無きありがたいものであります。 お歌に (判読不能・・・・) 北相馬に四国の軍勢が関東利根川を隔てこの所に出城を構え4年間の間篭城した。 故にこの所の平将門七騎大明神と祝奉る。お祭りをするとき、この地の日出(日秀)弾正佐友治の名字を取って日出村という。 承平7年より今年まで長久安全を熱心にお祈りしています 元禄15年3月9日 守谷町宮本丹波守神主 同 和泉守 この縁起書は昔から伝えられて来ましたが紙の虫食いがはなはなだしく甲子の年3月下旬に補修をして奉納しました 大龍山正泉寺29世 機外恩禪が謹んで書き写しました 文化元年甲子歳二年三年 下総相馬郡中相馬庄日秀村 慈愍山観音寺 龍山林風代 ※コピーで文字判読出来ない部分が多くありますが、何とか読み下してみました。皆様のご教示をお願いします。